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エド・ウッド番外編―研究メモ

Twitterでのつぶやきをまとめただけデェス…

プラン9・フロム・アウタースペースの真ん中の女性・ジョアンナ・リーはテレビの脚本家に転職。エミー&ゴールデングローブW受賞の「Babe」の脚本を描き、The Waltonsでエミー賞受賞した、最も偉大なテレビ脚本家の一人なのは、日本人の殆どが知らないし、映画秘宝も書いてくれなかった。

 

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真ん中がジョアンナ・リー

映画秘宝エドウッド」は我が国数少ないウッド研究資料なんだけど、ウッド映画には大根役者って『殆どいなくて』、映画俳優組合初期メンバーでテレビ黎明期に大活躍したライル・タルボットや1910年代から西部劇俳優として活躍したバド・オズボーンとか凄まじいメンツが滅茶苦茶いたことの記載がない。

ウッド映画は初見ではただの基本的人権を侵害する社会のガンなんだけど、調べるとアメリカ映画史の分水嶺、つまり短編から長編、劇場からテレビへの過渡期に位置し、また出演者も活躍の媒体が各々異なり、実は1950年代の映像業界を考察する貴重な映像資料であることへの認知が全くない。

これはウッドの日本での認知の経緯が「死霊の盆踊り」から始まり、バートンの「エド・ウッド」での紹介で、「映画が死ぬまで映画が好きだったゴミ野郎」という認識が広がり過ぎてしまって、彼を映画・テレビ史の発展の中に組み込んでみる視点が全く育っていないというのがある。

バートン「エド・ウッド」は1990年以降の映画文化の中にあのカスを蘇生させた点で意義があるけど、「グレンとグレンダ」を「女装を彼女に認めてもらいたい」『だけ』の映画という認識を広げてしまった点では罪深いんだよね。最後まで観ると「女装を克服して男として生きていく」復活の物語なんだよね。
バートンの伝記映画の最たる罪はグレンとグレンダの終わらせ方を、セーターを渡す場面にした点。本来はあの後に治療パートがありグレンは女装癖を「克服する」。バートン版は女装癖を受け入れて欲しい願望なのに対し、本家は女装癖があるけどそんな自分が恋人に受け入れられ、共に克服する物語。

さらにプラン9フロムアウタースペースは、伊東美和氏が述べるようにゾンビ映画にSFの視点を盛り込んだ点において、重要な一作である。伊藤チコ的に宇宙からの電波で死体が蘇るという着想はナイト・オブ・ザ・リビングデッドに受け継がれてると考えられ、つまりウッドがロメロを生んだ解釈も成り立つ。

だからウッドというのは、米国の恥部・映画の敵・映像文化のガン・健康で文化的な最低限度の生活を脅かす悪魔・再生に必要な電気の無駄にする地球の敵・シナプスを破壊する殺人映画など罵詈雑言を豊富に生み出す泉ではあるのだけど、映画史的に貴重な対象であることはもっと知られていいはず。


ウッド映画が地球に打撃を与え、人類の寿命を短くしているのは言わずもがな。前述の様に再生に必要な電力を無駄にして発電所に無価値な負担を与えているし、それに伴う発電は無意味なもので、無意義にオゾン層に打撃を与えている。伊藤たちに紫外線が降り注ぐのはウッドのせいだ。

バートンの「エドウッド」で描かれたウッドの人物造形は、なるほど、誰もが彼を好きになる魅力にあふれているんだけど、しかしどす黒い血の涙を流して一歩考察すると、相当な修正主義が入っている況やウッドの前半生だけで彼を「死ぬまで映画を愛した」と評価を下すのはフィクションである。

しかし、バートンのエドウッドというのはあくまで「事実をもとにしたフィクション」であり、伊藤が言いたいのは伊藤たち視聴者がそれを理解しないままあれを見て、「これが事実」だと思い込んでしまうという点に、問題の本質があり、それは有史以来の人類が抱える問題でもある。


ウッドの後半戦はみじめだと言われる。しかし、ルドルフ・グレイ『エド・ウッド 史上最低の映画監督』これは関係者のインタビュー記事なんだけど、プラン9以降、ウッドは情熱が無くなったようで、ポルノ小説・映画、そして企業CMの仕事に取り組むようになる。一般的にこれは落ち目と言われる。

でもだ!しかしだ!記述を読み込んでいくと、ウッドにはギャランティーは分からないけど相当な仕事が来ていたと読めるんだよね。特にポルノ小説については出版社の社長はとても彼を評価していたし、筆も早くて多作作家。夫婦そろって飲んだくれでなければ、貧困に陥る経済状況ではなかったと思われる。


柳下毅一郎『興行師たちの映画史』だったと思うけど、ウッドは決して『無能』な映画人ではなかったと伊藤も思う。出なければあのカスのimdbのページはプラン9で劇終だった。むしろ低予算映画・サブカルチャーといった、ある意味陰ひなたの文化世界ではウッドは有能な人材であったとの解釈ができる。有能かつ「貴重な」人材だっただね。でなければ仕事は来ないと考えらる。それがどんな賃金だったとしても。


通知が20+になっているけど、バートンの表現が悪いとか映画秘宝の紹介の仕方が良くないとかそんな『激烈にどうでもいい』ことを糾弾したいわけじゃない。ウッドを映画史の中で読み解くことの意義の定昇ともう一つ「クソ映画を作るのは製作者ではなくて『情報』」ということを言いたい。

 

エド・ウッド=文化の敵」の命題が形成された過程を追いかけると日本国内では「映画秘宝」「死霊の盆踊り」のプロモーション・紹介、世界的には「バートン」を経由して1980年代の映画雑誌「ゴールデン・ターキー」に行きつく。本書においてウッドとプラン9は「駆逐すべき映画・映画人」に認定される


「ゴールデン・ターキー」は重政氏「映画の本の本」で批判される通り、20歳と30歳の兄弟がおもしろおかしくカス映画をディスってランキングした本。今主席の手元に原本があって…怠けてて翻訳してないのが悲しいよ、ムック本なんだよね。ぶっちゃけ紹介されている映画が『少ない』。その中で選ばれた。

思うに著作兄弟は、70年代中ごろから埋め草として深夜テレビで流されたゴミ映画を観て、にやついていた、伊藤のような愛好家の一人で、ノリと勢いで執筆された本だと思うけど根拠はない。しかし、重政がキレているように「非常に少ない映画の中」からウッドは「レジェンド・オブ・ゴミ」に『選ばれた』ことは無視できない指摘で、でも『史上最低の映画』というパワーワードが独立独歩し、半世紀経ってもその座に鎮座しているのは、映画史的に意義があり、「視聴者が何をもってその映画を判断する」のかを考えるに極めて重要な事象だと思うよ。